若鳶会

富山県下で鳶・土木建設業に従事している有志の気軽な集まりです。

若鳶会について

私達は「何故?」このような会を継承し、日々忙しい最中、時間を作って集まり、命を懸けてまで梯子に登るのか?時代が進化し続けるなかで「鳶稼業」という生き様を後世に残し、受け継いでいくためであると私は思う。

今の現代社会において、引いては現場や家庭と様々な人間関係で忘れ去られている「義理と人情とやせ我慢」を信念として仲間との絆を強め切磋琢磨しながら、これからも突き進んでいきます。

富山県若鳶会では会員を随時募集しています。興味のある方は、ご連絡のうえ覗きに来て下さい。会長 細川 聡

団体名
富山県若鳶会
発 足
平成5年
定例会
第2・第4水曜日
会 員
23名(平成27年4月現在)
会 長
細川 聡
副会長
中嶋 康太・百塚 敬久

「鳶」とは

「義理と人情とやせがまん」

鳶の由来
  1. 火事場で鳶口を使うから。
  2. 城内で足場を掛けてくれる人夫を指して「あれは何だ」と殿様が聞いた時家来が飛んでいる鳥の事だと思い「あれは鳶です」と言ったことから。{ 二つの天職(鳶か火消しか、火消しか鳶か }「鳶頭(かしら)、家を建てたいから頼んだよ」と言われると「はい解りました」と言って、大工・左官等の20何業種を連れて来て仕切っていたのが鳶だった。更に町がやる様々な行事の全部に関わっており毎月10日間位、行事に関わっていた。
半纏
半纏着た時は、後ろに目をつけておかなければ駄目だ。印物(しるしもん)は階級制度でいろいろ制約がある。背中が決まっていないと様にならない。背中にしょってる大紋を上手に着ないと決まらない。鳶の半纏の丈は膝上までで、一人ひとり全部寸法が違う。
鳶の彫物
錦絵にも彫物がないと絵にならない。裸になる事は禁止で、裸で仕事も禁止。(一生を鳶で生きていくと言った覚悟を決めさせる)自分の中だけにしまっておくもので、人に見せるものではない。但し、みこしの場合は別。
木遣
木を遣り渡す → 木を運ぶ → 木を移動させる(労働歌)
徳川家康の江戸入府で江戸建設の為あらゆる職種の人達が江戸に向かう。(労働歌持込)
木遣地形、櫓地形 → 木遣は鳶職の商売道具 → 儀式の音楽として伝承された。
木遣は火消しの作業唄でもあった。10種類の200曲位ある(すべて口伝で伝える)
  1. 真鶴
  2. くさり物
  3. 端物
  4. 大間
  5. 追掛物
  6. 手休め者
  7. 巻物
  8. 流し物
  9. 補遣
の10種類。
梯子
本来は、仕事をするための準備運動として鳶職が階子にのった。初めて行ったのは、江戸に在住していた「加賀鳶」だという。
ある時、上野、池の端付近から出火したとの報せに出動したが、一向に火の手が見えない。そこで持参した「階子」を立て、急場の火の見櫓の代用に付近を見渡した。火事がなければ暇を持て余し、階子を玩具に、種々な芸が開発されたのだろう。
纏(まとい)の由来
いつ頃に出来たかというと、安土・桃山時代の豊臣秀吉の“金瓢箪”を嚆矢だとする説も有力であるが、“倭漢三才図絵”によると、永禄、元亀の戦国末期の頃で、北条氏康の家臣の、同苗左衛門太夫で、その後、武田信玄が大小二本作ったという。いづれにしても、“元亀(1570年)を中心にその十年前後”と考えられる。

老中に就任した松平定信が網紀を粛正し、勤倹尚武の風を励行したのが、“寛政の大改革”であったが、その煽りは町火消しにも及び、寛政三年(1791年)江戸の町法を改正するに当たり、“一、町々の纏、以後は組合限り一本に致し、大きさ二尺。白塗りに一同仕替、小纏相止可申奉”と定まった。

手締めの研究

一本締め

手締めの前に「いよぉーっ」というかけ声を掛けます。これは「祝おう」が転じたものです。
「一本締め」は江戸前の代表的な締め方です。江戸前の一本締めは「ちゃちゃちゃん、ちゃちゃちゃん、ちゃちゃちゃん、ちゃん」と三・三・三・一と手を打つのが正式です。
三回の拍手を三回繰り返すと九回。「九」という字に一つ点を打つと「丸」という字になります。最後の一回の拍手は、この「九」という字に点を打って丸くおさめましょう、という意味があります。

三本締め

一本締めを三回繰り返すのが三本締めです。四方八方丸くおさまることうけあいです。
「本日の当事者に一本、本時ご来場のお客様に一本、それからここの席亭に一本」と、こじつけの注釈をつけて、「それではご一同様、お手を拝借」ということになると、参加者全員が納得してくれる。

連絡先

若鳶会に関するお問い合せは、下記までお願いします。

富山県鳶土工業協同組合 若鳶会担当まで

TEL.076-436-1821